2007年10月02日

『滝廉太郎=竹田』の謎 滝廉太郎記念館

大分満喫探検隊

日本を代表する音楽家・滝廉太郎。
音楽に詳しい・疎いなどとは別次元で、彼の名前を知らない人はまずいないほどです。
代表曲『荒城の月』をはじめ、『箱根八里』『花』『お正月』『雪やこんこん』…。名曲の数々を挙げはじめればキリがありません。

竹田市にある『滝廉太郎記念館』は、そんな彼の生涯の遺物などを収めた貴重な記念館です。

"竹田市=滝廉太郎"
という構図は、当たり前の様に我々県民に染み付いていますが、実は滝廉太郎氏が竹田に住んでいたのは12歳からの僅か2~3年程度なんです。
それなのになぜ人々は滝廉太郎に竹田市を重ねるのでしょうか?

滝廉太郎記念館を見ながら、彼の生涯と竹田市について学んできました。




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滝廉太郎記念館は、平成4年の4月にオープンした、まだ新しい施設です。
竹田市が歴史の道として整備した通り沿いにあり、多くの観光客が平日・休日を問わず訪れています。私が伺ったのも平時の昼間でしたが、多くの観光客が来ていました。それだけ「竹田=滝廉太郎」という構図は多くの方に有効な公式なのでしょう。


入り口を入ると受付が左手にあり、その目の前では大きなTV画面で滝廉太郎を紹介するVTRを流してくれます。
彼の生涯について学べる素晴らしいVTRですから、せっかく行けたら必ず観ることをお薦めします。


その奥の部屋から、彼にまつわる貴重な資料や文献・遺品などが並べられています。
綺麗にされていますし、面白い見所も満載です。

滝家はそもそも江戸時代には日出藩の家老を務めていた上級武士の家柄、廉太郎の父・吉弘は大久保利通、伊藤博文らのもとで中央の官吏として務め、その後は地方官として各地を渡り歩きました。
廉太郎も家族と共に各地を転々とし、明治24年廉太郎12歳の頃、竹田市のこの家に移り住む事になりました。
ちなみにこの家は岡藩主・中川家の家臣をつとめた岩瀬家の由緒ある屋敷だそうです。


旧宅の裏庭から蔵の方へ向かう途中、大きな穴を発見できます。
入り口の上には「宝永六年」という彫り物がうっすらと見えるそうで、滝廉太郎がここに来る前には既にあったようです。父・吉弘はここに馬を入れ、馬小屋として利用していたと言われています。


蔵には現在廉太郎の像とピアノやオルガンと共に、写真などが置かれています。
二階に上げれば、廉太郎の部屋を意識した低めの屋根の綺麗な部屋が用意されていました。


竹田に来た廉太郎は、少年時代という多感な時代をここで過ごしました。
廉太郎は小さい頃から音楽に興味を示していたそうですが、4年生の時に担任となった先生が彼にオルガンを教え、初めて本格的に音楽に携わったのです。
そして15歳の頃、最年少で東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に合格し入学するのです。冒頭にお話したとおり、廉太郎が竹田にいたのは僅かにこの間のみ。私は意外だなぁと感じましたが、皆さんはどうですか?


竹田にいた頃の廉太郎は、風情ある竹田市の街並みを愛し、良く学び、良く遊んだそうです。
廉太郎が「良く遊んだ」場所の一つが、竹田市の象徴でもある「岡城」。この経験や思い出が後にあの名曲を作り出す事になるんですね。
廉太郎が竹田市をこよなく愛していたという事は、彼が晩年「かっけ」という奇病に苦しんだ頃、大分市に住む母に竹田に帰りたいと漏らしている事からも分かります。


以降、音楽家として、着々に歩み始めた廉太郎は20歳で早くも先生となり、教育する方の立場に立つ事になります。ちなみにこの時の彼の月給は10円。
そしてついに明治33年6月、三年間のドイツ留学を命じられるほどに、その名声は高まったのです。しかし学校側の都合もあり念願のドイツ留学はすぐに延期される事になりました。
実は、この留学延期から実際に留学するまでの一年弱の間に、彼の代表作が次々と発表される事になるのです。何とも皮肉な話ですが…(汗)


『荒城の月』
春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし
昔の光いまいずこ


荒城の月は、岡城がモデル…これはもう有名な話です。
ではこんな話はご存知ですか?
荒城の月の曲のモデルは岡城ですが、詩のモデルは作詞をされた土井晩翠氏の生まれ故郷の「青葉城」や、訪れたことのある会津若松の「鶴ヶ城」だったという話。
つまり詩と曲ではイメージされるお城が別だという事になるのです。しかも、この歌は先に詩が作られ、廉太郎が曲を書き下ろして応募した事が分かっていますので、本来は作詞家の土井氏のイメージの方が強いはずです。
それでも世の中には「荒城の月は滝廉太郎が作った」というイメージになっているところがまた凄い、という逸話です。



『箱根八里』
箱根の山は 天下の険 函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)滑(なめら)か
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
斯(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)


明治34年、22歳の頃、ドイツで体調不良を訴えた廉太郎は、12/2聖ヤコブ病院に入院。翌年7月には帰国を命じられます。
ドイツに着いたのが4/6ですから、僅か一年ほどの留学生活で、志半ばで諦めざるを得なかった事になります。
「肺結核」
廉太郎の体を蝕んでいたものは、当時「死病」として恐れられた不治の病でした。


『花』
春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき


実はこの名曲『花』は春夏秋冬の四章からなる『四季』という組曲のうちの一部です。
これも意外と知らない人も多いのではないでしょうか?


帰国後、明治35年11/24、廉太郎は大分市の両親の元で療養しました。
その三ヵ月後には、死力をふりしぼって当時では珍しいピアノ曲を書き上げます。完成したその曲に、廉太郎はただ一文字「憾(うらみ)」と記し、これが彼の遺作となりました。
享年23歳。
歴史に「もし」は虚しい言葉でしかありませんが…もし彼が長命なら、もっともっと素晴らしい楽曲の数々を後世の我々に残していたはずです。


滝廉太郎記念館には、「きつねの親子」と書かれた、立て札が飾られていました。
動物好きな廉太郎は、庭先に現れたキツネの親子に、油揚げを投げ、その姿をじっと見ていたそうです。そのうちキツネは毎日現れるようになり、それは廉太郎の日課になった…と書いてあります。


僅かな期間しかいなかったにも関わらず、竹田市をこよなく愛した、滝廉太郎。
実は先般、名曲「荒城の月」が教科書から外されるというニュースが流れました。
そのニュースに敏感に反応したのは、他でもない廉太郎が愛した竹田市でした。その小さな反対運動は大きなうねりとなり、多くの賛同者・団体などの支持を集め、あっという間に反対運動は加速。
結果、文部科学省公認ではなくなったものの、名曲は子供たちに受け継がれる事になったのです。
彼が竹田を愛したのと同じ様に、竹田市民も彼を愛しているんだな、と感じたニュースでした。




滝廉太郎記念館
竹田市大字竹田2120-1
入館料 大人300円 小人200円
開館時間 9時~17時
休館日 12月29日~1月3日
TEL 0974-63-0559



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この記事へのコメント
色々と勉強させられます♪ケンジさん、ありがとうございますm(_ _)m

憾は私が大好きな曲の一つで名曲ですよね♪何をそんなに憾んでいたのか…
歴史背景と重ね合わせて見ると見えて来ます。

『戦争』

これを憾んでいたとしか思えません…


弾けば弾くほど奥が深い♪まさに名曲です(*^_^*)
Posted by アリュール at 2008年01月22日 12:01
アリュールさん

私はピアノ曲なんて語れるほど、音楽に精通してないので、お話に乗る事ができませんが、【憾】という曲が人気の曲だというのは、聞いた事があります。

機会があれば、記念館に行って実際に彼の生家など、生きた証を見てみてください。
感動されると思いますよ。
Posted by ケンジ at 2008年01月22日 16:23